先日、NHK総合やNHKBSで「シリーズ移住・50年目の乗船名簿」が放送された。総合でオンエアーされた「特別版」とBS放送第3回目の「理想郷のゆくえ」の主役は、岩手県出身で南米パラグアイ・イグアスに家族を伴い移住した伊藤勇雄(いさお)さんだ。1898(明治31)年東磐井郡薄衣村(現・一関市川崎町薄衣)で生まれた伊藤さんは地元の郵便局で働いた後、上京し中央電信電話局に勤務。武者小路実篤と出会い、自給自足で理想郷を目指す九州日向の「新しき村」に参加した。その後農民運動や労働運動をしながら詩作を続け「農民詩人」と呼ばれた。
政治活動も行い岩手県議会議員や岩手県教育委員長などを歴任し、54歳で外山高原藪川開拓地に入植。開墾作業だけでなく開拓組合の組合長として地域に電気を通すことなどにも尽力した。
ここまでの歩みだけでも「功なり名遂げた」と称賛されてもおかしくないが、68歳になった伊藤さんは南米移住を決意する。インド旅行で食料不足を実感したのがきっかけで、大規模農業を基盤に「南米に理想郷をつくる」と家族を伴って「あるぜんちな丸」に乗船した。イグアスで暮らしたのは6年余。病に倒れ1975(昭和50)年1月、76歳で亡くなった。
生前、伊藤さんはイグアスの開拓地に「人類文化学園協働農場」という看板を掲げた。求めたイーハトーブは「国境、人種、文化の違いを超えた人々が集まり共に働き、学び合う理想社会」だった。番組では、遺志を継いで子どもたちがつくった小さな「青い湖の小学校」の臨時教師がその後、現地に開校した幼稚園から高校までの一貫校で校長を務めている映像が流れた。その学校では日系移民だけでなく現地人、欧米系の移民の子孫たちがともに学ぶ姿があった。
伊藤さんは宮沢賢治生誕2年後に生まれ、同時代を生きた。賢治は岩手に暮らし理想と現実の葛藤の中から多くの作品を残した。伊藤さんは老いてなお夢を求め、地球の反対側に向かった。社会の一員として、自己実現や組織の目標達成、企業理念の実現などのため日々仕事をし、地域に暮らす私たち。理想を求めた2人の“賢治”から学ぶことは多い。
(K.Jobs)
2019.8.1更新